ハマノパッケージ物語

リヤカーを牽いて家業を手伝った学生時代

ハマノパッケージ物語昭和29年3月世の中は戦後、
落ち着始め産業発展へむけて国を挙げて再スタートの時期、
濱野定次(現会長の父)は副業として自宅敷地内にて
シャツや肌着を入れる函を作り創めた。
2年程経つと得意先もだんだん増えていった。
当時濱野開(定次の次男・現会長)は工業高校在学中で学校が終わってからは
工場を手伝い、 配達に行っていた。
当時は配達の手段としてはリヤカーが主であり姫路市内までの約二時間、
リヤカーを引きながら配達し帰宅すると夜遅くになるという生活を続けていた。
「もっと上手く早く作れるようになりたい」開はこの業界への夢を強く抱くようになった。

朝早くから夜遅くまで働いた修業時代

ハマノパッケージ物語昭和30年3月に工業高校を卒業した開は大阪の貼り箱工場で
断裁技術と函貼り技術を習得するため修行に行った。

開は朝早くから夜遅くまで働いた。

その後1年で姫路に帰ってきた。
家業を手伝っていた姉が嫁ぐとの事で父・定次が開を呼び戻したのだった。
開は1年の修行を礎に本格的な貼り箱製造工場へ向けて勤しんで仕事に精をだした。
その内、開は「自分の天職だ、これに賭ける」 「この仕事でお客様に満足を与えたい」
とこの仕事に賭ける想いはますます強くなっていく。
そしてそう想うようになったのは修行時代の苦労があったから。

創業そして箱作りが軌道にのりだした好調期

ハマノパッケージ物語翌年10月には濱野開が代表者となり(有)濱野紙器工業所を創業、
従業員も集まり、仕事も少しずつ増えていった。

昭和33年に開の義兄である吉田喜八が父・定次の呼びかけにより入社してきた。
前職の経験を活かして経理を担当し、開の側近として専務も受け持った。

その後、大手百貨店からの風呂敷用の函の注文を受けはじめ、 省力化と
スピードへの夢・望みを持ち各地を巡り3年後には半自動貼り箱機を導入した。

昭和35年ダンボール製造部を増設し大手紙器会社の下請けを開始、
貼り箱製造部、ダンボール製造部と分業制で業務を行った。
社員もますます増えていき、住み込み5名、通勤10名で徐々に活気が出てきた。

昭和42年ハマノパッケージに前工場長段林儀廣が入社してきた。
お客様の無理難題の要望に昼夜を問わず徹底的に応えた。
開は社長業兼営業職、段林は製造の全責任を担い約20人の社員を盛り上げていった。
この時期工場敷地も240坪と次々に拡張し、工場増設を進めていった。
昭和50年代には社会の好調がやや落ち着き、「良いものを安く」と競争の視点・観点が変わり、
当社もコストダウンを余儀なくされた。
そこには競争が並行してあり機械の増設やの精鋭への設備の投資を継続的に行う必要があった。
貼り箱機も半自動機の導入で大阪大手の文具会社の幼児用文具や、
大手化粧品会社の高級化粧品のギフト用ケースにと貼り箱の受注に成功した。
一方ダンボールはフレキソ印刷機の導入による一般市場への挑戦もした。
また、この頃から「良いものへ」と差別性を追及するために社長自らが包装士の免許を取り、
新製品開発に力を入れ始めた。

数々の迷いの中進む道を見失った低迷期

ハマノパッケージ物語 50年代後半から業績も頭打ちになり、
「これからの貼り箱屋はどうなるのか、当社はどの方向へ進むべきなのか」
と開は迷い、 今後の会社の方向性の見直しを図った。

様々な経験や勉強を通じて開はいろいろな問題・障害を一つひとつ解決していった。
その中で開が学んだことはダンボールと貼り箱が得意先に対して
当初メリットであると思われたが、その方法は必ずしも効果的では無かった。

異色であるにもかかわらず同一敷地内で運営することの非効率さ
いわゆるムダ・ムリ・ムラを排除・改善することが最優先と判断した。

その結果、事業を貼り箱製造部門に絞りダンボール製造部門を撤退する決意をし、一旦会社を解散し整理した。
開は最大の苦境に立った。

その後“真心を包む化粧箱”をキャッチフレーズにし、
着実に得意先の安心と消費者のニーズをしっかり満足させるため紙器容器高級貼り箱製造を目的とした
会社新鋭「株式会社ハマノパッケージ」が誕生した。
昭和62年の6月であった。

「高級ギフト貼り箱」への挑戦、提案型企業への転換期

ハマノパッケージ物語世はバブルがはじけ、不況へと突入した、安価品へ消費が向き、
コストダウンが更に本格化していった、当社の貼り箱もいよいよその進むべき道を
更なる専門化・差別化の検討の必然を迫られたのを機に方向性を決定した。
それは

「高級ギフト貼り箱」であった。

その方向性を定め企画室の充実を図り、
提案型企業として「新しい函・美しい函・楽しい函」を提案することを胸に、
日夜心して寸暇を惜しんで企画室の机に向かい、
試作に励んだ。当時、高級な函は企業に受け入れられなかったが開は諦めず日々試作を行った。

その中で開の函が神戸の大手チョコレート会社の目に留まり、
本格的な商品用の試作を依頼されるようになった。
包装士のライセンスを取り日夜企画室で試作、提案し続けていたことがこの結果を生み、
この出来事は開にとって今でも忘れない感動の思い出となり、
現在の「ハマノパッケージの高級ギフト貼り箱」を確立させた瞬間でもあった。
ハマノパッケージ物語この時には社員数約20名になっており受注から製造まで全社員一丸となり
お客様の要望に応え社員はもちろんのことパートさんも遅くまで働き、
主婦業の方も一端夕食の準備に帰り片付けてからまた出社するという
究極な働き方をやりこなした。
これは現在の全社員の仕事に対する心がけの誇りになっている。

一方、開の長男である忠は高校卒業後、
大阪市のデザイン学校で4年間ビジュアルデザインを学んだあと
、同じく大阪府下の印刷紙器会社で5年間営業職に携わり印刷紙器(トムソン)箱を学んだ。
そして平成6年忠27歳の時にハマノパッケージに入社、自社の貼り箱製造部で2年間箱の基礎を学び、
その後営業部に進む。

世に認められた技術 ハマノの貼り箱がロングセラー商品に

ハマノパッケージ物語

平成9年企画室に貼り箱CADシステムサンプルカット機を導入した。

得意先が社長の企画・提案を認め、それに反応していき、商品化も進み
、得意先からのサンプル依頼が増え且つ複雑なものが要求され、
それに増してスピードと正確さを要求されてくるようになった。

平成14年度社長自身が
発明・開発した貼り箱が「グットデザインひょうご部門賞」に選出され、
大手チョコレート会社のギフト箱に採用されロングセラー商品の中でも
超人気商品にまでになった。
ハマノパッケージ物語その商品を皮切りに「ハマノパッケージさんは福の神だ」
とまで言われるようになった。

そして、新製品開発を続け平成19年度も
2回目の「グッドデザインひょうご産業・ビジネス部門」に再選出された。
苦労の甲斐あって会社の業績は右肩上がりに躍進していった。

貼り箱を通じてお得意様の商品をより一層売れる商品に コンサルティング

箱の形状・デザイン性は向上していけるが、
いざお得意先様が商品をお店に並べたときに、来られたお客様が手を伸ばしていただけるのか、
手にとっていただけるのかは我々が今まで考えなくてもよかった領域かもしれない。

しかし、商品が売れるためにはお得意先様が潤うにはお客様の心理の部分まで入り込んで
それを形にする必要があると思った。

そこで貼り箱製造会社が今までやらなかった領域に踏み込んだ。
それは『お客様の心を読み購買欲に訴えかける』だった。
そこには、喜び・楽しみ・驚き・安心・センスよく、などそこには感動という一つのキーワードに辿り着く。
そしてお得意先様もお客様もハマノパッケージも含め三者が嬉しいとか喜ぶとかがイメージできた。
これこそが忠の求める貼り箱のあるべき姿だった開は社業を忠に委ね平成19年に忠が社長に就任した。
新生ハマノパッケージの始まりであった。

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